魔法の毎日

 年末から、小さい孫ちゃん二人を連れて娘家族が3週間ほど逗留していたのが、昨日、帰国した。見送って、うちに戻ると、魔法の毎日が消えていた。ぬいぐるみたちは、ぼんやり天井を見上げ、ミニカーは固まっている。お菓子たちはほほえまず、かわいい衣装で踊ることもない。

それでもなんだか、「連中」に見透かされているような気がした。「ダルマサンガコロンダ」の鬼のように、振り向いたとたん、ぴたりと止まってしらんふりをされるような。おもちゃたちのエネルギーが、実は、活き活きと漲っている、「くるみ割り人形」の世界が。

静かな夕食を取り、一人でお風呂に入りながら、呼びかける相手がある。それは、もう、おもちゃやお菓子ではないけれど、こちらが呼びかけ、そちらが応える。大人の時間にも、魔法はちゃんと働いて、魔法の毎日は続く。

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当事者のすごさ!

 救急入院を余儀なくされた身内がいる。入院中に、思いがけず末期癌が見つかり、告知を受ける事態となった。早々に、医者から本人に告げられたが、ぴんと来ない様子だった。それはそうだろう、動転していて受け止めきれないのだろう、と同情した。当事者主体とはいえ、あまりに過酷ではないか。

ところが、数日後、ベッドサイドで、彼女は言った。「あのお医者さんに、もう治らないとか、治療法はないとか言われても、へっちゃら。だって、あの人は、自分の言っている言葉の意味を、わかってないから。自分が何を言っているか、わかってない人の言葉は、受け取らない。もしこれが、ちゃんとわかっている人に言われたら、そうとうショックだけど」

「役割」なんかで、いのちの終末を告げたって、そんなものは受け取りませんってことなんだ。当事者は、接してくる相手の本質と向き合おうとしている。「あなた、ちゃんと伝えなさい。ちゃんと言えるまで、わたしは受け取りません」って。

この、告知資格試験に、件の医者は、まだ合格できないでいる。
余命については百も承知で、自分のこの先を勘案している彼女は、医者の前では、きょとんとして見せている。

11月

 この11月は、友人や身内の入院や手術が続いて、病院を訪ねる機会も増えた。医療スタッフと話すことも多い。率直に話し合うことも必要になる。話を共有して検討する必要も出てくる。こういうときに、フォーカシングやアサーティブネスは、自分も相手も大切にする道具なんだなぁと、しみじみする。

フォーカシングでは、自分の中に密やかに潜む感情や、気がかりを掴むことが出来て、助かる。目先の懸案に振り回されて、早速、動き出そうとするのを、ちょっと待つことが出来る。
アサーティブネスでは、かなり難しい場面でも、「気持ち・要求・歩み寄り」で整理ができるし、実際に「話し合いの場を設定する・事実を話す・肯定的に始める」などの持って行き方で、課題に入って行かれる。

いつも「簡単なこと、できそうなことから始める」と思って、ずっとそうしてきた。「難しいこと、出来そうもないことは後回しにする」と思って、いくつも棚上げにしておいた。そんなふうに小さなことを片づけるうちに、棚上げしていたものも、「時」に助けられて、柔らかく扱いやすくなっていた。「置いておく」ことの大切さを教えてくれたのは、フォーカシング。無視するのでなく、忘れてしまうのでもなく、そっと大切に棚上げしておく。それでいい。


フォーカシングとアサーティブネスが、ぐるりぐるりと車輪のように回っている。

「『赤毛のアン』の秘密」

 小倉千加子著 「『赤毛のアン』の秘密」(岩波現代文庫)を読み終わった。ありがとう!小倉さん!!

モンゴメリが、アン・シリーズの最終章「炉辺荘のアン」を書いて亡くなったのが、1942年。その10年後に私は生まれ、そのシリーズを読み終えたのは15歳、モンゴメリの没後四半世紀だ。物語の結末は絶望的で、世界が閉じるようだった。それはモンゴメリの絶望であり、キーワードは「結婚」。小倉さんは書く。

「モンゴメリは、自分が作家として真実を描く『黒い羊』に憧れながら、結局は自分では半分しか信じていない『白い羊』の価値を抱えて生きていることを知っていた。どうせ、『白い羊』として生きるなら、最初から何の逡巡もなく『白い羊』として生きてきたダイアナのほうがよほど賢明ではないか。「炉辺荘のアン」の結末部でのアンのセリフ『かわいそうな子なしのクリスチン』は、阿鼻叫喚の世界にいたモンゴメリの自己肯定の絶叫である」

モンゴメリとバージニア・ウルフが同世代人だったことも了解した。保守的なモンゴメリもフェミニストのウルフも自殺で生涯を終えた。どちらに転んでも、だ。

70年代にフェミニズム、当時はウィメンズ・リブ、に触れて息を吹き返したものの、あのとき閉じた世界は開かない。ほんのわずかに、自分の息のできる空間を、押し広げ押し広げして生きている。そんな自分を、ただ内的な指向性として自覚するだけでなく、歴史と時代と精神史で分析され語られて、命拾いする。「アン」の正体が見えるのに、40年以上が過ぎた。こうしてある時、メッセージが届けられ、わかってくるのだから、生きているって素晴らしい。


盲ろう者ヘルパー研修

 盲ろう者の介助をするヘルパー研修に参加した。スキルアップのため、2年に一度の参加が義務づけられている。テーマは「認知症への対応」だった。聞こえず見えずの中で認知症を発症するのは、本人にとって、つらく困難なことだろう。それをサポートするには、盲ろうの理解だけでなく、認知症への理解も必要だ。講義は、地域包括支援センターの職員によって、冊子を使いながらの丁寧な内容だった。講義の後、質問が寄せられたが、そのやりとりが、圧巻だった。

ご自身もろう者で、難聴者の相談支援員をしているという方が、質問した。

質「難聴の方が通う事業所で、職員が、よかれと思って、その方の耳元で大きな甲高い声で話しかけます。その度に、難聴の方が眉をひそめます。『かえって聴き取りにくい様子なので、正面からゆっくり話していただいた方がわかります』と伝えるのですが、職員は態度を改めません。どうすればよいでしょうか。」
答「事業所の苦情に上げてください。事業所はすぐにその職員に対処する必要があります。匿名でもかまいません。サービス向上のための大事な申し出になります。改善されないようでは、かなり質の悪い事業所ということになります。」

質「難聴の方が親と暮らしており、母親の認知症が疑われます。しかし、難聴の方が認めず相談につながりません。困っています。」
答「大げさに思われるかもしれませんが、必要なサービスを受けられない状態に当事者を置くことは、ネグレクトといわれる虐待です。高齢者の虐待には、息子さんの係わっているケースが多いのも実情で、長いことお二人で暮らしていると尚更おこりがちです。早速、相談員が包括支援センターにつながり、手段を講じてください。息子さんに納得していただくまで、ねばり強く訪問してください。家族があれじゃ仕方ないなどとあきらめず、第三者としてできることをしましょう。また、虐待してしまったとしても犯罪者ではないという理解が大事です。」

また、こんな質問もあった。
質「盲ろう者で認知症を持つ方のところへ訪問しています。要望されることがしばしばトンチンカンになるので、とまどいます。ご家族に聞きながら対応した方がいいでしょうか」
答「サービスは、当事者のためのものですから、多少トンチンカンでも、対応できることならそのままでいいと思います。本人の自尊心を一番大切にしてください。」

身体しょう害を持つ方たちが牽引してきた「当事者主権」の理念は、高齢者福祉に貢献している。現実は、ちゃんと進んでいる。